町おこしプロジェクト ウラ長瀞 #2「渋沢栄一と長瀞町」

ウラ長瀞とは?
長瀞町を形成する「人」や「歴史」にフォーカスした情報を発信します。この場所で生きる人たちのストーリー、町の歴史など観光では知ることができない長瀞町の新しい魅力を発見し共有していきます。

2024年から一万円札の顔になる日本資本主義の父「渋沢栄一」。長瀞町も渋沢栄一と繋がりが強いことはご存知でしょうか?今回のウラ長瀞は役場で文化財関係のお仕事をしてきた小澤さんにお話しを伺いました。長瀞の歴史や秩父地方の祭りなどの伝統文化をご紹介します。


【小澤 守さん】

小澤さんは東京都出身、埼玉の大宮で育ちました。長瀞町へは古墳の発掘調査がキッカケでくることになりました。当時長瀞町には学芸員がいなかった為、小澤さんは埼玉県から派遣されてきました。発掘調査したのは群集墳という小さい古墳で、経済力のあった有力な農民のお墓です。調査は数ヶ月で終わりましたが、そのまま役場の職員になり30年長瀞で住んでいます。

小澤さん:「子供の頃育った大宮は自然豊かな町でした。もともと大宮や浦和は今の長瀞のように豊かな自然がありました。子供の頃育ったような環境の中でゆっくりと気ままに暮らせています。」


10月27日、小澤さんたちが企画した公民館講座「日本資本主義の父、渋沢栄一の足跡を歩く」というイベントを開催。今話題の渋沢栄一の魅力と長瀞町との繋がりを紹介しました。地元の人も知らないことが多い渋沢栄一と長瀞町の関係。小澤さんに渋沢栄一について聞いてみました。


「渋沢栄一について」

1840年、現在の埼玉県深谷市に生まれました。明治時代に活躍した実業家です。
藍玉製造、養蚕に力を入れる豪農の家に生まれました。藍の売買をはじめ養蚕・生糸なども手掛けて秩父地方の村々には足繁く通っていたと伝えられます。もともとは倒幕を企てる尊王攘夷派の志士でしたが、後に最後の将軍になる慶喜に仕えることになりました。

27歳の時に幕府の家臣たちとパリ万博博覧会に派遣され近代化した街の姿に刺激を受けました。それまで鎖国していた日本はパリ万博博覧会が初めて参加した万博になります。渋沢栄一は滞在期間中に株式会社や経済の仕組みなどを学びました。しかし大政奉還により帰国することになりました。仕えていた慶喜に「これからはお前の道を行きなさい。」と、新しい時代を渋沢栄一は歩みはじめました。

帰国後は大隈重信らに説得され大蔵省で働くことになりました。しかし大久保利通と大隈重信と意見対立し政治の世界は4年ほどで離れました。その後は初めて株式会社の仕組みを使ったり、日本で初めての銀行「株式会社第一国立銀行(現在のみずほ銀行)」を作りました。亡くなられるまでに設立に関わった企業と団体は500を超え、「近代日本経済の父」「日本資本主義の父」と呼ばれています。2024年から一万円札の顔になることが決まり、2021年の大河ドラマでは渋沢の人生も描かれます。

「なぜ渋沢栄一が注目されているのか?」

小澤さん:「まず私欲がないことです。稼いで自分のためと懐に貯め込まずにいろんなところに顔を出しお金を使いました。その結果、500を超える企業や学校に携わっている。基本的には銀行の頭取として産業を育てるためにお金を使っていた、自分に使うとかではなく。まさに今の時代に求められている人物像で、そこが1番の魅力ですかね。論語と算盤の道徳経済合一説は、道徳がなければいくら金を稼いでも無駄ということです。第一回衆議院議員総選挙(1890年)では出馬もしていないのに票が集まるような人です。政治に対して渋沢はあまり興味がなかったみたいですが、それだけ人と繋がりがあって認められている人だったというのがわかります。」


利益を独占するのではなく、全体で共有するという「論語と算盤」(道徳経済合一説)の理念。現在の企業などに求められているCSR、ESG投資と繋がっている。これは経済的なリターンを得るだけではなく、環境や社会の事を考えることが大切だという流れです。最近注目されるようになりましたが、渋沢栄一は100年以上も前から主張してきたものです。

明治維新、関東大震災、世界恐慌など大きく時代が変わる厳しい時代を生き抜いた渋沢栄一。物質的には豊かになったが、精神的には豊かなのか?このまま継続するとおかしな社会になるかもしれない。そんな時代の中で自分の欲ではなく、人との繋がりや道徳が大事だという考えが必要だと渋沢栄一が教えてくれています。


大戦をとめれるはずだった?

「青い目の人形」


小澤さん:「実は1926年、1927年にノーベル平和賞の候補になっています。戦前の話ですよ、当時はヨーロッパとアメリカのための賞でした。候補になること自体がすごいことです。日本だけでなく世界にも認められていたんです。」


渋沢栄一はアメリカ宣教師シドニー・ギューリックが人形を通して国際交流をする「doll project(人形計画)」の提案を受け日本国際児童親善会を設立しました。

背景には日本とアメリカの対立がありました。1927年、アメリカから12739体の人形が日本に入ってきました。これが青い目の人形になります。人形を受け取った日本の幼稚園や小学校では歓迎式が開催されました。アメリカへお礼の手紙を送ったり返礼として58体の市松人形が贈られました。関係が悪化する2つの国の人と人が繋がった瞬間でした。渋沢栄一とシドニー・ギューリックの日米関係改善の願いが成功した事業でした。

しかし、時代の流れは変わりませんでした。1941年太平洋戦争が勃発、戦争により日米関係は悪化しました。日本では青い目の人形は、竹槍の標的にされたり焼却処分されました。空襲などで失わられ、残在しているのは335体のみになりました。

小澤さん:「青い目の人形は敵国のものだ!ということで燃やされたり竹槍の標的になったりした。ほんとうに狂った時代ですよね。しかし長瀞や秩父の人は常識人が多く、隠したりして残っている。埼玉県には178体きて、12体しか残っていない。秩父地方には6体も残っています。前は長瀞の小学校に飾っていてすぐに見れます。来年埼玉で渋沢展覧会をやるので今は見ることができないですが。渋沢たち、経済界の人間はアメリカに勝てないとわかっていました。国の規模が違うので、しかしそんな事は口に出せない時代ですからね。」


渋沢栄一は91歳の亡くなる直前まで事業を立ち上げ続けました。いくつもの会社の設立に関与する理由は、民間力の向上により国力を高めることを目指していたからです。そして絶対に必要なものを事業にするから間違いなく成功するという考えで動いていました。しかし偉大な人物でも失敗の連続だったそうです。500以上の会社の設立に関わったことを知ると、かなりのエリートと感じますが順風満帆とはいかなかったみたいです。いろんな失敗と挑戦を繰り返して「日本資本主義の父」と呼ばれることになりました。そして令和の時代になった今、最も学ぶべき人として注目されています。調べれば調べるほど面白く学ばせてもらえる人物です。


次回もウラ長瀞では「渋沢栄一と長瀞町」について記事を公開します。渋沢栄一は長瀞町にとってどのような存在だったのか?ご紹介させていただきます。11月20日に公開させていただきます。

清水 勇多


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