町おこしプロジェクト ウラ長瀞 「長瀞の自転車乗り VOL.1」


長瀞はおもしろい人が多い。人生の半分以上を自転車レースにささげてきた岩瀬さん。自然豊かな長瀞町は自転車が楽しめる最高の場所だと豪語する。実際に岩瀬さんとマウンテンバイクで長瀞の山を走らせてもらいました。最高の体験でした。何より岩瀬さんがこの写真以上に楽しい笑顔で走っていた事が印象的だった。ライダーとしての人生などいろんなお話を聞きました。ご覧ください。

岩瀬信彦氏の略歴
1968年4月生まれ 神奈川県相模原市出身。
中学生時代に自転車レースに目覚め、人生の半分以上をレースに捧げる。1997年にはMTBダウンヒル全日本チャンピオンになる。2004年から「誰もが自転車を楽しんでくれたらいいな」という願いから、バイクライフサポートシステム(Blss)を長瀞町で立ち上げる。


自転車人生の始まり

”君早いね、うちの自転車に乗ってみない?”
Q:何度もお会いしてましたが、全日本チャンピオンとは知らなかったです。子供の時や自転車を始めるまでなど色々岩瀬さんについて教えてください。

岩瀬さん:子供の頃は勉強よりも遊びやスポーツが好きで、子供の乗り物は自転車しかなかった。自転車で遊んだり競争したり、地域では無敵で自転車では負けなし。外の地域に行っても負けなしだった。

得意だったから好きで、どんどん枠も広がっていった。ただ自転車を乗るだけでなく、ジャンプとかウィリーとかするんだけど、ただの自転車だから壊れてしまう。壊れて直して、壊れて直して。自分のも壊れて親父の自転車に乗って、親父の自転車も壊しだして。笑

そして「お前が乗っても壊れない自転車を買え」と言ってもらって小学生のときにBMXを買ってもらった。あっラッキーみたいな。笑

Q:小学生の頃から本格的に自転車を始めたんですか?

中学に入ってレースをはじめました。けど初めてのレースでは決勝までいけなかった。準決勝ぐらいまでしかいけなくて悔しくて。何が足りなかったか考えながら、次のレースに出るために練習した。

そして次のレースでは決勝に残って結果5位だったけど、やってきたことが結果に現れるという面白い経験をした。その時レースに連れて行ってもらった自転車ショップのオーナーの方に、「君早いね、うちの自転車に乗ってみない?」と言われたのが本気になるキッカケだった。そこからはレースばかりの人生がはじまった。

Q:それからずっと自転車の選手としての人生。なんか目標設定など子供らしくない一面もあったんですね。具体的な夢もあったんですか?

岩瀬さん:実はオフロードの自転車をはじめたのは、将来的にオートバイ競技の一つモトクロスの選手になる夢があったからです。子供は乗れないから、まずはBMXからレースに参戦した。中学3年生からモトクロスを始めた。しかし怪我がすごくて高校を卒業ぐらいに、半年間ぐらい動けない時期があった。そのリハビリに自転車を乗り始めて、また自転車のレースにではじめた。自転車出戻り組みたいな感じでした。それが20歳ぐらいの時で、そこからずっとマウンテンバイクをやってきた。

ずっとやってるうちに目指す枠が大きくなっていった。最初は日本で1番になりたいだったが、世界の舞台を目指すようになった。

1997年にマウンテンバイクのダウンヒルの全日本チャンピオンになった。2004年までワールドカップなど世界選手権に出ながら世界のレースを経験して引退した。

Q:現役時代の話も聞きたいですが、引退後の岩瀬さんの事が気になります。引退してからBLssを始めるまではどのような流れだったんですか?

長瀞に来た2000年過ぎ頃から引退後どうするのかと考えるようになった。2002年ぐらいに長瀞町でマウンテンバイクに乗って、山の中を案内するガイドツアーをやろうと準備を始めた。まずは長瀞町の山を散策して走れそうなところを探した。地元の方などに話をして山を使わせていただけないか話をした。下準備をしながら2004年の引退後すぐに長瀞町で、バイクライフサポートシステム(Blss)事業を始めました。

マイナースポーツの世界

Q:マウンテンバイクって私の印象はマイナースポーツで日本ではあまり有名ではない印象です。マウンテンバイクの選手はどのような環境で生きてるんですか?

岩瀬さん:マウンテンバイクはマイナースポーツでそれだけで食べていける人は少ないです。世界の舞台は北米とヨーロッパが中心だった。今は南アフリカなどでも展開されている。俺の時代はバブルが弾けた時代、エコとかクリーンとかバブリーな生活ではなく質素な生活。高級ホテルに泊まるのではなくキャンプするみたいな。ちょうど今みたいな時代でした。お金がないなりに楽しもうという時代で、アウトドアブームが起こっていた。
マウンテンバイクもアウトドアとセットで世の中に浸透していった。なので自転車業界以外の企業の注目がすごく高かった。他の業種のスポンサーがついてくれた為、物品支給とサラリーがあって合わせると意外と収入があった。

日本には自転車プロ登録は競輪選手しかなかった。世間的にはプロとは言えないが、活動はプロとして活動していた。2000年初期は日本でワールドカップを開催するぐらいのマウンテンバイクブームだった。そこから急にマウンテンバイクへの注目がなくなった。次の世代はスポンサーもなく厳しかったと思う。
自分は丁度良い時期に活躍させて頂くことができた。

 ”もっともっと”

Q: 今何かに熱中できる人は少ないと感じます。子供の時に自転車への熱狂はどのように手に入れたのか?
岩瀬さん:人よりも得意なことで周りから褒められたことが自分にとってプラスになったと思う。それが嬉しくて「もっともっと」という気持ちになった。何にも比べる所がなくて、ただ走ってて楽しいとか速いとかそんなのではなかったかな。他人からの評価があって「もっともっと」という気持ちになった。
いまだに自転車に対する熱い気持ちがある。走るだけでなく自転車に関わる事は全て好きです。

Q:お会いした時に怪我がキッカケでマウンテンバイクをする事になったと聞きました。怪我をして動けない時、不安や迷いはなかった?

岩瀬さん:中学3年生からモトクロスを始めてレースに出ていた。3年間ぐらいは自転車には乗らずにオートバイだけだった。勢いだけだったから怪我も多くした。膝の怪我が長引いて、リハビリで自転車に乗ったのも1つのキッカケだった。走れない期間は何にもできないからどんよりした気持ちはあった。けどこの先どうしようみたいな迷いみたいな気持ちはなかった。「次どうしようか」などそこまで考えてなかった。けどもしかしたらモトクロスはもういい、、みたいなことは内心思ってたのかもしれない。

Q:BMXやモトクロスのレースって日本ではどんな感じで開催されてたんですか?中学生から始めたので歳上の方と競争することが多かったですか?

BMXは年齢別のレース、モトクロスはクラスで分かれる。年齢は関係なく免許を持ってないと参加できない、なので16歳以上が条件だった。すぐに免許とってライセンスとってやってたので戦ってたのは歳上が多かった。当時は本当に夢中であまり何も考えずにやっていた。

”チャリンコだから。
どこまでいってもチャリンコだから。”

Q:選手として活動する中で、お金に対する不安はありましたか?メジャースポーツとは違いマイナースポーツは大変だとよく聞きます。

好きなことをやれてるから何も不安はなかった。これで稼ぐとかはなかったかな。毎年シーズンがある。10月ぐらいまでがレースで、終わったら次の年に向けて準備をする。複数年契約の場合は関係ないが、その年で契約が終わる場合は次の契約を取らないといけない。契約更新はすごく焦る。野球選手などメジャースポーツはマネージャーがいて交渉など流れができていると思う。俺らの場合は全て自分でやらないといけない。

履歴書、成績、提案書を作って、交渉をしてその度に就職活動をしないといけない。
スポンサーが欲しければ企業にいってプレゼンテーションをした。マイナースポーツはこんなもの、メジャースポーツはいいなっていう感覚は確かにあった。

まずマウンテンバイクという競技が野球やサッカーみたいにメジャーになるとは思えなかったよ。だから自分がやらないといけないと受け入れていた。それに比べると海外の選手はプロとして成り立っている。まず日本はそういう国ではないと感じていた。

今はどうなってるかわからないが、外から見た感じだと今の方が状況は悪いと思う。
マウンテンバイク一本でごはんを食える人はいないんじゃないかな。オリンピックに出るような選手でもどういう条件でやれてるのか?という感じ。他のスポーツもTVに出れる競技以外は全部そうなんじゃないかな。

日本での認知度が低いという理由で、プロとして食べていける人は少ないと思う。ラグビーもあんなに盛り上がったのに一瞬で忘れられてしまう。現実的にプロスポーツとして成り立つものは少ない。

そして自転車はみんなが乗れるから、スポーツとしてまず認められていないかもしれない。チャリンコだから。どこまでいってもチャリンコだから。それをスポーツとして認めるのは存在が身近すぎて難しいと思う。



”嫌でも今日は乗らないと、みたいな感じで日々過ごしていた。そんなに楽しい作業でもなかった。”


Q:やっぱり自転車が好きだから引退まで走ることができたんですか?

「自転車が好き」はバックグラウンドのようなもの。毎日とにかく自転車が好きとかではなくて、時間が経って想いも変わってくる。

根本的に几帳面な性格だから1年間のスケジュールをびっちり立てないと気がすまない。1年間、毎月、週間、毎日のスケジュールを立てる。その通りにやっていかないと気が済まない。(笑)

自分の使ったメニューをこなしていくのに一生懸命だった。目標を持ちクリアしていく課題がないといきなり目標には辿り着けない。だから毎日ログをつけてやっていた。ガムシャラに乗るだけ、好きだから毎日乗る、ではなかった。嫌でも今日は乗らないと、みたいな感じで日々過ごしていた。そんなに楽しい作業でもなかった。

食事も気をつけないといけないし、年齢も上がると好き勝手するといろいろ響いてくる。
サボれば響く、食べても響くし、歳を追うことにどんどん厳しくなっていった。


”何かを目指さなくても走ればいいんだ。”

Q:体力的な限界がやはり引退の理由だったんですか?継続する辛さというか、精神的にも難しい状況だったんでしょうか?

2000年に大手自転車メーカーがスポンサーについて走っていた。けど疲れてしまった。走ること以外に使う労力が。一回マウンテンバイクを辞めようと思った事があった。仲間に疲れたから辞めようと考えていると相談したら、みんなが応援してくれた。

「みんなで応援するから走りなよ」と。

支えがあってプライベーターとしてレースを続けることにした。大手メーカーからスポンサーを受けずに自由な形で走れる環境をつくれた。そこでフッきれた。自由な発想とスケジュールでマウンテンバイクをできるようになって、急にマウンテンバイクが楽しくなった。

「何かを目指さなくても走ればいいんだ」って。

そういう感覚になったのがこの時期だった。
これもキッカケになって長瀞町に引っ越してきた。色々アドバイスしてくれた人が長瀞町出身の人で、こっちで走る所いっぱいあるからみんなで走ればいいじゃん。

その人が山を持ってて、俺の山で走ろうぜって言ってくれた。長瀞町に誘ってくれたのが全てのキッカケだった。ここから引退までの2年間は自由に走れた。でもいつか決めなければいけないという感覚もあって引退を考えはじめた。

長瀞の環境をつかって何かしようとガイドツアーを考え始めた。レースとガイドツアーの両方を考えながら2004年に引退した。


元全日本チャンピオンの岩瀬さんと一緒に長瀞の山をマウンテンバイクで走らせて頂きました。そして遊びながら歴史や絶景ポイントを紹介してくれました。めちゃくちゃ楽しかったです。結構なハードな山道を走ってジャンプとかしてましたが、実力の1/10も出してないとの事。。本気の岩瀬さんが気になります。次週はBLssの未来について、長瀞町の観光にも深く関わる岩瀬さんの想いを紹介します。


Blss (バイクライフサポートシステム)

住所:〒369-1305 埼玉県秩父郡長瀞町大字長瀞888-1
TEL:0494-66-3930


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